御堂筋線西田辺駅周辺の魅力を伝えるOsaka Metroのローカルメディア「くらしの風景」は、2022年6月に地元の不動産会社と一緒にまち歩きを行いました。
当日のレポートを、前後編に分けてお届けします!
WALKING TOUR NISHITANABE
Osaka Metro BuyLocal くらしの風景&丸順不動産
ツアーレポート(前編)
このまち歩きは、まちの成り立ちを知ることができる歴史的スポットや、最近オープンした小さくもユニークなお店、Osaka Metroのリノベーション物件なども立ち寄れる「まちの移り変わりを体感できる特別なツアー」です。
今回は、西田辺エリアで出店しているお店の方を対象に参加者を募り、エリアに詳しい丸順不動産の小山氏がガイドを務めました。
このような取り組みを行うことは、何につながるのでしょうか。
なぜエリアリノベーションプロジェクトに「まち歩き」が必要なのか、その目的とは?
西田辺エリアはユニークな個人店の出店が相次ぎ、住まいとしても人気のエリアになってきています。
一方で、一歩踏み込んだエリアの歴史背景やそれを感じる街並みへの理解はまだ及んでいないのが現状です。
そこでまちを歩くことによって、長い年月をかけて形作られてきたエリアの特徴や個性を肌で感じてもらい、理解と愛着を深めてもらいたいと考えました。
そしてこれらを継続させ、少しずつエリアの価値を高めていき、日常の暮らしを豊かに変えることにつながっていくのです。
ではなぜ今回は一般の方ではなく、あえてお店の方に参加していただいたのでしょうか。
お店の方を対象にした理由
影響力や発信力のある店主がエリアの歴史背景などを知ることで、より一層まちに愛着を持ち、それをお客さんである地域の人に広く伝えることができるからです。
出発前に自己紹介もかねて参加理由を伺うと、皆さん口をそろえて「地域のことをお客さんに教えたい」とお客さんや地域に対する高い意識をお持ちでした。
さらに店主同士の新しいつながりが今後の各店舗での企画や発信に影響し、エリアとしての結束感を生むことができます。
今回は多数の応募があり、なんと7店舗の店主に参加していただきました。
せっかくなのでコース内にある参加店もいくつか巡りました。
それではさっそく、「まち歩き」スタートです!
[ 目次 ]
1.シャープ旧本社ビル跡地に大型店舗が開業した場合の影響とは
2.住吉大社の神馬が千年に渡って歩いた道とは
3.JR阪和線の高架化による線路跡地には何ができるのか
4.山阪神社は前方後円墳の上に創建されている!?
5.山阪神社の境内に九重部屋の宿舎がある理由とは
6.身近な田辺の道が実は「下高野街道」であった
1.シャープ旧本社ビル跡地に大型店舗が開業した場合の影響とは
まずは西田辺駅に集合し、南港通り沿いに東へ歩いてすぐの歩道橋を登っていきます。
こちらの歩道橋は1970年に建設されたものになり、かなり老朽化が進んでいます。
大阪市としては、補修工事費用に負担がかかる歩道橋を出来るだけ撤去するよう動いているのですが、ここは近くの長池小学校の通学路としてかろうじて残してくれているようです。
歩道橋を登りきると視界が開け、広大な敷地が更地になった工事現場が見えます。西田辺の象徴でもあった「シャープ」は地元と共にある企業でした。
この旧本社ビル跡地に「大型家具店」が開業される予定になっています。
この「大型家具店」が開業されることによって「街が良くなる」という声がある一方、「変わらない」、「むしろ悪くなる」という声も無視できません。
小山さんは「雇用が増えると言ってもたかだか知れている。また地元の方の資金が外部に流れてしまうかもしれないという懸念もある。ただ、こちらで働く人が行きや帰りに消費してくれると良い方向に向かうかもしれない」と語ります。
2.住吉大社の神馬が千年に渡って歩いた道とは
町名「西田辺」の由来は、奈良時代に当地を田辺史(たなべふひと)の一族が管轄して田辺郷(今でいう村)と称されていたのが由来になります。
田辺氏は戦後まもない頃、住吉大社の神馬(しんめ:神社に奉献され神が騎乗する馬)を田辺の牧場で飼育されていました。
斜めに横切る道は当時川沿いの土手になっていたそうで、東に進むと山阪神社にたどり着くことができます。
神馬はこの道を朝夕と、千年にも渡って田辺と住吉大社を往復していたということになります。
しかし、2代目に任されてからは神馬を何頭も死なせてしまう事態となり、激怒した住吉大社は残りの馬を引き取ることになったといいます。
田辺郷にとってこんな不名誉なことはなかったでしょう。
残りの馬は、現在は杉谷牧場クラブ(和泉市)で管理育成されているそうです。
ちなみに、↓写真の長池小学校は田辺小学校の分校として1929年に創立したもので、当時の木造2階建ての写真を見せていただきました。
(白黒写真は小山さんのブログから)
3.JR阪和線の高架化による線路跡地には何ができるのか
山阪神社に向かう途中、JR阪和線の高架下にはアスファルトのまま遊休地化している土地が南北に延びています。
この空き地はJR阪和線が高架化した跡地で、天王寺の国道25号線~我孫子の大和川海岸線までの約5520mにわたります。
踏切による交通渋滞・事故の解消や地域分断の解消、高架下の有効利用を目的に大阪市が都市計画を進め、平成18年に高架化が完了しました。
当初は、高架化したJR線の上に高速道路を乗せる計画でしたが、阪和線ルートは断層であり、さらに阪神淡路大震災は起きたことから計画は廃止されました。
現在は、大阪市により新たな都市計画が検討されています。
計画では、駅前のオープンスペースや歩道を整備し、公園とつながる緑の空間づくりを目指すとしています。(※1)
整備には長期間を要することから、お披露目まではしばらくお預けのようです。
高架沿いを進むと、長池公園に着きました。
長池公園にある池は、昔は桃ヶ池公園の池と川としてつながっていたそうです。
のちに埋め立てられ、道路や公園ができたという経緯があります。
ほどなくして山阪神社に到着しました。
山阪神社と山坂公園が隣接するこの敷地の地形にはある特徴があります。
4.山阪神社は前方後円墳の上に創建されている!?
公園に入り山阪神社に向かって歩いていると、なだらかな坂になっていることが分かります。
実は、山阪神社は前方後円墳の上に創建している、との説があります。
しかし、当時の墓制に必要な付属物である埴輪などが出土していない事に加え、「難波大道(なにわたいどう:詳細は後編にて!)」がちょうど鳥居にあたる可能性もあります。
さらに古墳の成立が難波大道より古いので、これでは説明が難しくなってきます。
……と、このようにあれこれ考察するのも歴史の面白さなのでしょう。
「山阪神社」は「田辺神社」とも呼ばれており、田辺氏が自らの祖先神「天穂日命(アメノホヒノミコト)」を祀ったとされています。(※2)
日本三代実録(平安時代に編集された歴史書)によると、田辺西神(山阪神社)と田辺東神(中井神社:東住吉区針中野)は従五位(じゅごい:神階における位)を受けていると示されています。
当時は約30,000㎡にも及ぶ広大な境内地だったのですが、神主が遊興にふけ続け、しまいには借金を作るほどに落ちぶれました。
それに対し住吉大社は憤怒し財産を没収した末、現在の小さな敷地になってしまったそうです。
普段多くの方が拝礼される拝殿の反対側は、伊勢神宮遥拝所(総氏神である伊勢神宮を拝むことができる)です。
見落としがちな外観ではありますが、中に祠(ほこら)が見えます。
伊勢神宮遥拝所には国家安寧や世界平和を願うと良いとされています。
5.山阪神社の境内に相撲部屋の宿舎がある理由とは
境内の一角に相撲部屋が見えます。
これは神社とどのような関係があるのでしょうか。
山坂神社には、天穂日命のほかに「野見宿禰命(ノミノスクネノミコト)」が祀られています。
野見宿禰命には、とある伝説があります。
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強力士を誇っていた大和の當麻蹶速(たいまのけはや)は、常日頃「自分と互角に力比べができる者はいない」と豪語していました。
そこで天皇は、評判があった山阪神社の相殿神(あいどののかみ)である野見宿禰命(ノミノスクネノミコト)と力比べをさせ、戦いの末、當麻蹴速は命を落としました。
これが我が国初の展覧相撲になり、国技相撲の起源ともされています。(※3)
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(写真は「国立国会図書館デジタルコレクション」から)
こうして勝った野見宿禰命は、「相撲の神様」として崇められるようになりました。
そんな「相撲の神様」が祀られた由来から、山坂神社では、かつては奉納相撲が行われていました。
そして現在も、大相撲大阪場所の時期になると、相撲部屋である「九重部屋」の宿舎として利用されているのです。
6.身近な田辺の道が実は「下高野街道」であった
山坂神社を出て、南田辺本通商店街を北に「下高野街道」を歩きます。
高野街道とは、平安時代に京都から高野山や熊野へ詣でる人のため作られた参拝道です。
起点が異なる4つのルートがあり、その1つの「下高野街道」は天王寺から田辺を通って堺の北野田までに至ります。(※4)
また下高野街道は田辺の人間にとっては大切な生活道路でもあったようです。
この道すがら、恐ろしい話を聞くことになります。
(後編へつづく)
※1:大阪市建設局道路部街路課 天王寺大和川線事業説明会 かぜかおる“みち”