御堂筋線西田辺駅周辺の魅力を伝えるOsaka Metroのローカルメディア「くらしの風景」は、2022年6月に地元の不動産会社と一緒にまち歩きを行いました。
当日のレポートを、前後編に分けてお届けします!(→前編はこちら!)
WALKING TOUR NISHITANABE
Osaka Metro BuyLocal くらしの風景&丸順不動産
ツアーレポート(後編)
[ 目次 ]
7.田辺にも「模擬原子爆弾投下」という悲惨な歴史があった
8.田辺に神馬塚があるのはなぜ?
9.法楽寺といえば田辺大根
10.法楽寺西門前の難波大道は壮大な道だった
11.桃ヶ池長屋の認知度を上げたきっかけとは
12.いつなくなってもおかしくない貴重な景観の「北畠住宅」
13.まち歩きを振り返って
7.田辺にも「模擬原子爆弾投下」という悲惨な歴史があった
「下高野街道」の道すがら、恐ろしい話を伺いました。
終戦間近の1945年8月6日に広島に原子爆弾が投下された出来事は公然の事実です。
しかし、その裏で11日前の7月26日午前9時26分、田辺(現在の田辺小学校北側)に模擬原子爆弾が投下されていた事実はあまり知られていないのではないでしょうか。
“模擬”といっても、長崎で投下されたプルトニウム原爆と同じ型・大きさ・重さで、中身も5トンもの火薬が入っているのです。そのため、死者7名・重軽症者73人・焼失倒壊戸数485戸・罹災者1645人の大きな被害が記録されています。(※5)
また米軍は、田辺だけではなく、日本各地への空襲に紛れて49発もの模擬原子爆弾を投下しています。
なぜこのような事をする必要があるのでしょうか。
それは「原爆を目視で目標地点に投下する」「投下とともに自らの機体が被爆しないように急旋回させる」など、原爆を想定通り投下するための訓練だったのです。
このような凄惨な出来事を知ったご遺族が、犠牲者の冥福と戦争のない世界の実現、全人類の共存と繁栄を願い「模擬原子爆弾投下跡地」として石碑を建立されました。
(現在は恩楽寺(田辺1丁目)の山門にあります。)
下高野街道を北上し、阪和線寄りに曲がると「神馬塚」に着きました。
そもそも、住吉大社の神馬がこの地で飼育することになったのには理由があります。
8.田辺に神馬塚があるのはなぜ?
「神馬塚」とは、歴代の神馬が埋葬され祀られているお墓です。
しかしのちに遺骨の匂いなどの問題から鬣(たてがみ)の一部を埋葬することになったそうです。
神馬は、元来住吉大社で飼育していましたが、ある日失踪してしまいます。
捜索すると、田辺の地で休んでいたことがわかりました。
以来、住吉大社の神馬の飼育や没後(死後)の管理は田辺郷の住人が代々任されていました。
その厩舎は「性鷹寺(しょうおうじ)」(田辺3丁目)の北東隅(ほくとうぐう:鬼門)と「北田辺郵便局」(北田辺6丁目)の北隣にあったとされていますが、現在その地は共に駐車場になっています。(※6)
現在、神馬塚は東隣の(株)うどんや風一夜薬本舗の末廣氏によって丁重に管理されています。
秋にはイチョウが舞い散り、まるで黄色の絨毯のように美しい光景が見られるそうです。
阪和線沿いを南に下り「法楽寺」に寄ると、市内とは思えぬ静寂さが広がっています。
9.法楽寺といえば田辺大根
「法楽寺」は、真言宗泉涌寺(せんにゅうじ)派の大本山です。
※大本山:総本山の次の位のこと
「田辺のお不動さん」として親しまれ、平安末期に平重盛が創建したと伝わっています。
また、江戸時代から栽培されていたなにわの伝統野菜「田辺大根」が盛んに栽培されたことでも有名です。大正時代には、法楽寺西門周辺で栽培されていたことに由来し「田辺横門大根」とも呼ばれていました。
10.法楽寺西門前の難波大道は壮大な道だった
境内の西側を出たところに「難波大道跡」の案内板がありました。
「難波大道」とは、日本で最初の官道(かんどう:現在でいう国道)のことで、「日本書紀」にも記されています。この難波大道の軌跡が、法楽寺西門を通っていたのです。
ルートは海上・河川・陸上の接点として、人や物、情報が集まっていた難波宮(なにわのみや:大阪市中央区法円坂)から真南に延び、それに直交する竹内街道(たけのうちかいどう)を経て、宮殿のある飛鳥までを結びます。
竹内街道は、推古天皇や厩戸皇子(聖徳太子)などの陵墓(皇族の墓)がある磯長(しなが:太子町)を抜けることから、聖徳太子がこの難波大道を何回も通ったのではないかと考えられています。(※7)
また、大和川今池遺跡(松原市)では、側溝のついた路面幅17mの道が検出されていることから、壮大な道だったことがわかります。
しかし、私有地との境界があいまいだったため少しずつ狭められていき、現在の細い道になってしまったそうです。
阪和線を越えて西側に向かうと、このまちの象徴でもある「桃ヶ池長屋」に着きました。
今ではおしゃれなイメージが当たり前の長屋ですが、このブームのきっかけとなるお話を聞き知ることができました。
11.桃ヶ池長屋の認知度を上げたきっかけとは
小山さんは、2003年9月に「昭和7年に建てられた『寺西家阿倍野長屋(阪南町)』が登録有形文化財に指定された」と記事で知り、「これが文化財になるなら西田辺、昭和町界隈は文化財だらけではないか」ということに気付きました。
そしてご縁があり、この長屋の再生や、大正時代の長屋を活用した「金魚カフェ」の開業に携わりました。
当時はまだ昭和町や長屋が注目されていない時期だったので、パイオニア的存在だったのではないでしょうか。
続いて携わったのが、この「桃ヶ池長屋」です。
現在「りんどうの花」にあたる場所は、当時は廃屋同然の状態だったそうです。
しかし、若者が店舗付住宅として半年かけてDIYで店舗をつくり、「日和」というカフェ&家具屋として住みながら商いを始められました。
ちなみに、日和の左右は電気屋と酒屋だったそうです。
のちにお店は畳まれましたが、これが長屋ブームのきっかけとなり、現在は4件の店舗が並んでいます。
あびこ筋を渡り、さらに南西に向かうと、他とは違う雰囲気の通りに入ります。
12.いつなくなってもおかしくない貴重な景観の「北畠住宅」
阪南町4丁目にある住宅と住宅の間にある通路は、未舗装で砂利が敷き詰められており、この一帯を「北畠住宅」と呼んでいます。
北畠住宅は、大正14年に大阪市が計画した初の分譲地です。市内各地で分譲住宅が開発されていましたが、通路が未舗装のまま現在も残っているのは、ここ北畠と杭全のみです。
北畠住宅も半分以上がすでに建て替わっており、この道を残すか、舗装するかの住民投票が定期的に行われています。まだ未舗装派のほうがやや上回っていますが、最近は拮抗状態が続いているのだそうです。
未舗装だと雨が降ったときにぬかるんだり水が溜まったりと大変ですが、貴重な景観はぜひとも残していただきたいものです。
最後は、阪南町にあるOsaka Metroの空き家リノベーション物件を訪れました。
戦前の「木造長屋」と築50年の「マンション」の活用事例を見学してゴールとしました。
13.まち歩きを振り返って
長年住んでおられる地元の方やお店をされて来た方々でも、地域の歴史を知る機会はあまりありません。
しかし、家の近所の見慣れた建物やさりげなくある石碑からは歴史が語りかけてきます。
そこから意外な発見や関心を抱き、この歴史があって今のまちがあると深く理解し、それが魅力につながりました。
最後に参加者の方から感想を伺いました。
~
「千年以上のつながりを通し愛着を感じるようになった」
「改めて歴史のある街をもっと好きになった。お客さんにも知って好きになってもらえたら」
「今日学んだことを革教室の生徒さんを始め、ひとりでも多くの方にお伝えできれば。横のつながりができたことも貴重でした」
~
と、皆さんに大変満足していただけました。
このツアーが、微力ながらまちづくりによる価値向上の手助けになりましたら幸いです。
[参加メンバー]
A( C ) | セレクト古着ショップ |
caboche | 革小物教室と帆布かばんのアトリエ |
brorgym&salon | パーソナルトレーニング・スタジオヨガ・サロン |
sante studio | ヨガ&ピラティススタジオ |
大市珍味 | かまぼこ・お惣菜の製造販売 |
発酵ルパン | パンとお酒と発酵料理を愉しむお店 |
nimo Alcamo | スパイスカレーとチャイのお店 |
[コーディネーター]
丸順不動産株式会社 代表取締役 小山隆輝
[ライター]
松田 美千子
[フォトグラファー]
cu-T 坂本 未来